笹野観音堂 [Japan]
桜の便りが南から上ってきていますが~
こちらは3月初めの山形県・米沢市
雪の壁が出来るほどの残雪 豪雪地帯と言う事が分かります
「山ぶどうの篭作り」を見た後、近くの「笹野観音堂」に立ち寄ってみました
が・・・お堂へと向かう山門&参道はご覧の通り通り抜け出来ません
左脇道から~雪掻きされ雪解け水の滴った堂道を・・・
それにしても凄い残雪 3月1週目です 如何に米沢が雪深い地か改めて認識しました
でも、これだけ雪に囲まれているとね・・・何だか暖かささえ感じます^^
きっと「かまくら」って、こんな感じなのかもしれません
坂上田村磨呂の開基、大同元年(806)に法相宗の名僧・徳一上人によって中興されたという
そんなに古い由緒ある寺院なんですね~驚きです
伊達氏・上杉氏と歴代領主の信仰も厚く
伊達政宗が野始め(伊達氏の正月行事、3日に狩を行った)の途中に訪れたり
上杉氏も藩主病気の時や天候不順の折には祈願を命じ
お堂の再建・修復を手伝ったそうです
天保4年に火災に遭い、同14年(1843)に再建されたのが現在のお堂
大きな茅葺の屋根、精巧な彫刻等・・・米沢では希にみる壮大な建物です
竜や鳳凰の彫物は実に素晴らしい~!
庄内の彫物師、後藤藤吉・政吉の作と伝えられています
再建当時天保の飢饉と称される凶作の続いた時期だったそうで
藩では倹約令を出し、参詣や神社・仏閣への寄付の停止令を出す状況
観音堂の再建はすぐには許可されなかったそうです
同11年、ようやく米沢城下の商人を中心に寄付が集まり
大工4,500人・人足2,800人・屋根葺300人や石工・彫物師数名
延べ7,100人余の労働力を要し、観音堂が出来上がったそうです
観音堂の境内には貴重な文化財も数多く残されています
参道北側の石の地蔵尊
米沢城下の大商人・渡部伊右衛門が450両余の大金をかけて建てた延命地蔵尊
蔵王山の麓から運ばれた~約30個の石で組み立てられています
松尾芭蕉と地元俳人の句碑があったり
お堂には置賜の俳人104名による俳句の懸額が納められ
近年、米沢商業高校の生徒が復元奉納した「算額」も掲げてあります
「やまぶどうの籠」が導いてくれた^^文化の薫り高い史跡でした
こちらは3月初めの山形県・米沢市
雪の壁が出来るほどの残雪 豪雪地帯と言う事が分かります
「山ぶどうの篭作り」を見た後、近くの「笹野観音堂」に立ち寄ってみました
が・・・お堂へと向かう山門&参道はご覧の通り通り抜け出来ません
左脇道から~雪掻きされ雪解け水の滴った堂道を・・・
それにしても凄い残雪 3月1週目です 如何に米沢が雪深い地か改めて認識しました
でも、これだけ雪に囲まれているとね・・・何だか暖かささえ感じます^^
きっと「かまくら」って、こんな感じなのかもしれません
坂上田村磨呂の開基、大同元年(806)に法相宗の名僧・徳一上人によって中興されたという
そんなに古い由緒ある寺院なんですね~驚きです
伊達氏・上杉氏と歴代領主の信仰も厚く
伊達政宗が野始め(伊達氏の正月行事、3日に狩を行った)の途中に訪れたり
上杉氏も藩主病気の時や天候不順の折には祈願を命じ
お堂の再建・修復を手伝ったそうです
天保4年に火災に遭い、同14年(1843)に再建されたのが現在のお堂
大きな茅葺の屋根、精巧な彫刻等・・・米沢では希にみる壮大な建物です
竜や鳳凰の彫物は実に素晴らしい~!
庄内の彫物師、後藤藤吉・政吉の作と伝えられています
再建当時天保の飢饉と称される凶作の続いた時期だったそうで
藩では倹約令を出し、参詣や神社・仏閣への寄付の停止令を出す状況
観音堂の再建はすぐには許可されなかったそうです
同11年、ようやく米沢城下の商人を中心に寄付が集まり
大工4,500人・人足2,800人・屋根葺300人や石工・彫物師数名
延べ7,100人余の労働力を要し、観音堂が出来上がったそうです
観音堂の境内には貴重な文化財も数多く残されています
参道北側の石の地蔵尊
米沢城下の大商人・渡部伊右衛門が450両余の大金をかけて建てた延命地蔵尊
蔵王山の麓から運ばれた~約30個の石で組み立てられています
松尾芭蕉と地元俳人の句碑があったり
お堂には置賜の俳人104名による俳句の懸額が納められ
近年、米沢商業高校の生徒が復元奉納した「算額」も掲げてあります
「やまぶどうの籠」が導いてくれた^^文化の薫り高い史跡でした