そうだ 京都は、今だ。⑦ 高瀬川・龍馬通り [Japan 京都]
FAUCHONホテル裏の高瀬川沿いを歩きます
高瀬川は京都の中心部に物資を運びいれる為に開いた運河でした
この川を通る高瀬舟の荷物をあげおろしする所を「舟入」と言い
かつて舟入は九箇所設けられていたそうです
高瀬川は、大きな鴨川に並行して十条まで南下し
伏見で宇治川に合流する事から
江戸時代には底が平面の高瀬舟が、物資の運搬を行っていました
木屋町押小路にある「一之舟入(いちのふないり)」
復元された高瀬舟が一艘置かれてありました
木屋町通りは、幕末を駆け抜けた志士たちの隠れ家等があり
暗殺の場や居住していたことを示す碑が数多く立つ所でもあります
木屋町通りから河原町通に抜ける路地近くには
土佐藩の屋敷があったそうですが、今は石碑のみ残っています
石碑の殆んどは幕末史に係わるもので、私としては心躍る場所^^
この辺りが幕末維新史の中心地であった事を教えています
維新史ではこの周辺で数多くの事件が起きています
この当時の各藩邸は、原則的には治外法権の所であり
幕府の役人と言えども、軽々と踏み込む事は出来ない所でした
高瀬川沿いの狭いエリアに並んでいた各藩の藩邸は
伏見や大阪との連絡にも格好の地だったのですね
その頃の坂本龍馬は、この地で「海援隊京都本部」として過ごしていました
高瀬川沿い三条近くに海援隊本部があった「酢屋」が在ります
酢屋は幕末には坂本龍馬をはじめ、多くの海援隊隊士をかくまったところです
当時、龍馬は、ここの二階の表西側の部屋に住んでいたようです
龍馬が京都に滞在していた際の拠点
「酢屋」前の通りは龍馬通りと名付けられました
正にこの辺り・・・幕末の香りが漂う場所~
近くには、坂本龍馬妻・お龍が独身時代に住んでいた跡の石碑も立っていました
今は雑居ビルとなっていて
明治時代に滋賀県知事や京都府知事に就任した中井弘が生活をしていた場所でもあります
お龍(楢崎龍・ならさきりょう)は医者をしていた楢崎将作の長女
お父様が亡くなった後、母妹弟たちとにここに移り住んだそうです
龍馬が暗殺された後、お龍は大道商人の西村松兵衛と再婚
「西村ツル」を名乗り、晩年を横須賀で過ごしたそうです
日本で初めて商社ができ、大きく流れが変わった江戸末期の「幕末」の跡
京都にはワクワクするほど沢山残されています まだまだ「幕末」続きます^^
高瀬川は京都の中心部に物資を運びいれる為に開いた運河でした
この川を通る高瀬舟の荷物をあげおろしする所を「舟入」と言い
かつて舟入は九箇所設けられていたそうです
高瀬川は、大きな鴨川に並行して十条まで南下し
伏見で宇治川に合流する事から
江戸時代には底が平面の高瀬舟が、物資の運搬を行っていました
木屋町押小路にある「一之舟入(いちのふないり)」
復元された高瀬舟が一艘置かれてありました
木屋町通りは、幕末を駆け抜けた志士たちの隠れ家等があり
暗殺の場や居住していたことを示す碑が数多く立つ所でもあります
木屋町通りから河原町通に抜ける路地近くには
土佐藩の屋敷があったそうですが、今は石碑のみ残っています
石碑の殆んどは幕末史に係わるもので、私としては心躍る場所^^
この辺りが幕末維新史の中心地であった事を教えています
維新史ではこの周辺で数多くの事件が起きています
この当時の各藩邸は、原則的には治外法権の所であり
幕府の役人と言えども、軽々と踏み込む事は出来ない所でした
高瀬川沿いの狭いエリアに並んでいた各藩の藩邸は
伏見や大阪との連絡にも格好の地だったのですね
その頃の坂本龍馬は、この地で「海援隊京都本部」として過ごしていました
高瀬川沿い三条近くに海援隊本部があった「酢屋」が在ります
酢屋は幕末には坂本龍馬をはじめ、多くの海援隊隊士をかくまったところです
当時、龍馬は、ここの二階の表西側の部屋に住んでいたようです
龍馬が京都に滞在していた際の拠点
「酢屋」前の通りは龍馬通りと名付けられました
正にこの辺り・・・幕末の香りが漂う場所~
近くには、坂本龍馬妻・お龍が独身時代に住んでいた跡の石碑も立っていました
今は雑居ビルとなっていて
明治時代に滋賀県知事や京都府知事に就任した中井弘が生活をしていた場所でもあります
お龍(楢崎龍・ならさきりょう)は医者をしていた楢崎将作の長女
お父様が亡くなった後、母妹弟たちとにここに移り住んだそうです
龍馬が暗殺された後、お龍は大道商人の西村松兵衛と再婚
「西村ツル」を名乗り、晩年を横須賀で過ごしたそうです
日本で初めて商社ができ、大きく流れが変わった江戸末期の「幕末」の跡
京都にはワクワクするほど沢山残されています まだまだ「幕末」続きます^^