Withコロナの夏休み 沖縄⑨ ひめゆりの塔 [Japan 沖縄]
7月の海の日連休 本土はまだ梅雨が続いていましたが
6月に梅雨明けした沖縄は、30度越えの暑さに海も輝いていました
糸満市にある「ひめゆりの塔」へ向かいます
家々の屋根の上に据え付けられている悪霊を追い払う魔除け「シーサー」
殆どの家で見掛けます 独特ですね~この雰囲気
「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔に到着
コロナの影響も有るのでしょうが・・・全くと言って良い程、観光客が居ません
これには驚きました 昔「沖縄」といえばここが一番の観光地だったんですけどね
太平洋戦争末期
沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人が
沖縄戦の看護要員として動員され、123人の若い命が奪われた「ひめゆり学徒隊」
負傷兵を看護する為に陸軍病院の外科壕へと
軍命により動員された女子学徒たちが動員された場所は・・・
陸軍病院とは名ばかりの、昼間でも暗いガマ(洞窟)でした
動員された女子学徒には、3ヶ月足らずの即席の看護教育が施されました
教育内容は、人体知識や創傷の経過と処置、注射器や担架の使い方、伝染性疾患
講義終了後に試験を実施し、病院で演習・実地が行なわれたそうです
優秀で真面目な娘たちだからこそ習得できたのでしょう
短期間ながら教育を受けた女子学徒らは、陸軍病院・海軍病院・野戦病院に配属されます
そこでの主な仕事は、負傷兵の食事の世話や排泄物・汚物の処理、包帯交換など
ごつごつとした岩の上に、簡易ベッドが設置されているお粗末な所・ガマ
ガマは、日が差し込む入口付近のみが薄明るく、少し奥へ入ると真っ暗な闇の中
そしてそこには・・・
自分達の身を守ってくれるであろう「赤十字」の旗は有りませんでした
そう、彼女達は戦場の前線に立たされたのです
1945年4月 米軍兵上陸
医療用品が不足し不衛生な暗いガマの中
彼女達は傷口からウジ虫が湧いている軍人の処置を行い
自分で用を足せない軍人の陰部に触れ、排泄の介助を行い
足や腕の切断手術を受け、痛み暴れる軍人を彼女達が押さえつける
お腹から内臓が出ている者 顔面に銃弾を受けて顎が無い者
手、足、指を奪われた者 耳や目を奪われた者
脳が炎症し、叫び暴れる者 ベッドの上で手榴弾を抱え込み爆破させて自殺する者
銃弾や砲弾が飛び交う中、命がけで水を汲みに行く
膿や血の付いた手で、おにぎりを握り・・・それを食べる
昼夜を問わず、彼女達は働き続けました
ひめゆり平和祈念資料館には、「伊原第三外科壕」が実物大で再現されていて
ひめゆり学徒隊について、見て知る場となっています
「ひめゆり」の名の由来
沖縄県立第一高等女学校を「乙姫」 沖縄模範学校女子部を「白百合」
その両方の名前を合わせて「姫百合」と名付けられ
戦後からひらがなで「ひめゆり」と使うようになったそうです
「子どものころは戦争ばかり・・・」生存者の方は語っています
「ひめゆり」は、今の中学3年から大学1年にあたる年代だったそうです
222人が看護要員としてかり出され、123人が命を落としました
6月に梅雨明けした沖縄は、30度越えの暑さに海も輝いていました
糸満市にある「ひめゆりの塔」へ向かいます
家々の屋根の上に据え付けられている悪霊を追い払う魔除け「シーサー」
殆どの家で見掛けます 独特ですね~この雰囲気
「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔に到着
コロナの影響も有るのでしょうが・・・全くと言って良い程、観光客が居ません
これには驚きました 昔「沖縄」といえばここが一番の観光地だったんですけどね
太平洋戦争末期
沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人が
沖縄戦の看護要員として動員され、123人の若い命が奪われた「ひめゆり学徒隊」
負傷兵を看護する為に陸軍病院の外科壕へと
軍命により動員された女子学徒たちが動員された場所は・・・
陸軍病院とは名ばかりの、昼間でも暗いガマ(洞窟)でした
動員された女子学徒には、3ヶ月足らずの即席の看護教育が施されました
教育内容は、人体知識や創傷の経過と処置、注射器や担架の使い方、伝染性疾患
講義終了後に試験を実施し、病院で演習・実地が行なわれたそうです
優秀で真面目な娘たちだからこそ習得できたのでしょう
短期間ながら教育を受けた女子学徒らは、陸軍病院・海軍病院・野戦病院に配属されます
そこでの主な仕事は、負傷兵の食事の世話や排泄物・汚物の処理、包帯交換など
ごつごつとした岩の上に、簡易ベッドが設置されているお粗末な所・ガマ
ガマは、日が差し込む入口付近のみが薄明るく、少し奥へ入ると真っ暗な闇の中
そしてそこには・・・
自分達の身を守ってくれるであろう「赤十字」の旗は有りませんでした
そう、彼女達は戦場の前線に立たされたのです
1945年4月 米軍兵上陸
医療用品が不足し不衛生な暗いガマの中
彼女達は傷口からウジ虫が湧いている軍人の処置を行い
自分で用を足せない軍人の陰部に触れ、排泄の介助を行い
足や腕の切断手術を受け、痛み暴れる軍人を彼女達が押さえつける
お腹から内臓が出ている者 顔面に銃弾を受けて顎が無い者
手、足、指を奪われた者 耳や目を奪われた者
脳が炎症し、叫び暴れる者 ベッドの上で手榴弾を抱え込み爆破させて自殺する者
銃弾や砲弾が飛び交う中、命がけで水を汲みに行く
膿や血の付いた手で、おにぎりを握り・・・それを食べる
昼夜を問わず、彼女達は働き続けました
ひめゆり平和祈念資料館には、「伊原第三外科壕」が実物大で再現されていて
ひめゆり学徒隊について、見て知る場となっています
「ひめゆり」の名の由来
沖縄県立第一高等女学校を「乙姫」 沖縄模範学校女子部を「白百合」
その両方の名前を合わせて「姫百合」と名付けられ
戦後からひらがなで「ひめゆり」と使うようになったそうです
「子どものころは戦争ばかり・・・」生存者の方は語っています
「ひめゆり」は、今の中学3年から大学1年にあたる年代だったそうです
222人が看護要員としてかり出され、123人が命を落としました
鳥肌が…。
自分がひめゆり隊の1人だったら!って考えたら、
たぶんお世話や、色々な事できなかっただろうな!って
考えちゃいました。
戦争はやっちゃいけないなぁ~。
by shiho (2020-09-09 06:17)
沖縄が一番の戦争犠牲者だと思います。
同じ日本国民なのに、今も・・いろいろ問題で苦しんで。。。
by 横 濱男 (2020-09-09 06:47)
そう遠くない昔にこんなことがあったなんて…
戦争の悲惨さがひしひしと伝わって来ます。
多くの若く尊い命が失われてしまいました。
二度と戦争を起こしてはいけない思いと
改めて平和であることに感謝したいと思います。
by raomelon (2020-09-09 07:44)
痛いなぁ
私が仕掛けた戦争ではないけれど罪の意識を背負います。
それにしても軍部、全ての退避行動で、民間人を置き去りに利用。
退避戦では最後を行くしんがりが精鋭のはずだけど、民間人を置き去り。
北方でも同じことをしているので体質は同じでしょう。
少年少女が、簡単に、無惨に消されていくことに苛立ち、振り返りたくない場所。
という感情と、我が国を守らねばという意識は別物です。
by tommy88 (2020-09-09 09:07)
夏休みの沖縄旅行、
バカンスを楽しむだけでなく、
ひめゆりの塔へ慰霊のお参りへも
足を運ばれたのですね。
今年はコロナの影響で
各地の戦争慰霊祭が縮小傾向でしたが、
戦争で多くの犠牲があったことを
風化させてはいけませんよね・・・。
by あおたけ (2020-09-09 13:01)
ここを訪れた時のことを記事を拝見して、
昨日のことのように想い出しました。
「ひめゆり」の方々は昨年亡くなった母とは同年代でした。
母は一度は沖縄に行かなければと言いつつ
結局行かずのままになってしまったのが
戦争体験者として言葉には表せない感情があって
行けなかったのかもしれないなと思っています。
by kuwachan (2020-09-09 14:47)
1月の旅行の際にも訪れましたが、思っていたよりも街から離れていました。その際は、観光バスも多かったですね。
by ヨッシーパパ (2020-09-09 18:45)
こんばんは!
訳あってPCに向かう時間がありませんでした!
by Take-Zee (2020-09-10 19:57)
沖縄は、観光で、何度も行きましたが、ひめゆりの塔は、気が重くて、一度も行っていません。
by テリー (2020-09-11 15:36)
長い間ブログを放置してましたが、
本日やっとこさ更新いたしました(^_^;)
でも次はいつ更新できるかな???
by よーちゃん (2020-09-13 16:51)